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代表亀甲のストーリー

体が資本、キーマンにこそ保障を!転機を経て保険の道へ

株式会社トータス・ウィンズ代表取締役 亀甲 来良インタビュー

株式会社トータス・ウィンズ代表取締役の亀甲 来良が、ライターの鹿倉安澄さんからインタビューを受けました。インタビュー記事を掲載いたします。

法人向けの生命保険を扱う代理店事業を手がける株式会社トータス・ウィンズ。企業のファイナンシャルプランニングや事業継承計画のサポートなどのコンサルティングをメインに、中小企業の経営者にむけた多角的な支援を提供しています。

「お客様のことを第一に考えた最適なソリューションを」とにこやかに語るのは、代表取締役の亀甲来良さん(かめこう・らいら)。「日経マネー」「プレジデント」といったビジネス誌への寄稿、書籍出版、法人の保険のお悩みを解決するウェブサイト「保険アンサー」の運営、そして保険・金融に関するセミナーの開催など、精力的に情報発信されています。

まさに「ファイナンスのプロ」という言葉を体現されているかのようなご活躍ぶりですが、亀甲さんがここに至るまでには、どんなストーリーがあったのでしょうか。

新卒でIT系企業の営業職に就き全力投球した日々から、紆余曲折を経て現在の会社に入社したいきさつ、事業継承の裏側などをお伺いし、お人柄に迫ります。

「保険を比べて選ぶ」が当たり前ではなかった時代に
先駆者としてスタートした父の会社

トータス・ウィンズは複数社の保険商品を扱う「乗合代理店」。2002年に亀甲さんのお父様が設立されました。乗合代理店で複数社の保険を比較・検討して選ぶというやり方は、今でこそ一般的になってきましたが、以前は事情がまったく違いました。お父様が会社を設立された頃はどんな状況だったのでしょうか?

1947年、終戦後間もなく制定された独占禁止法。自由競争による破綻を防ぐため、例外的に保険に対しては適用されませんでした。そのまま30年ほど前まで、日本の金融市場は縦割りで、保険の販売代理店は、一つの保険会社の商品しか扱えないというルールに縛られていました。

複数社の保険を比較したければ、それぞれの保険会社の代理店の営業マンに要望を伝えて1社ずつプランを作成してもらい、それらを自分でつきあわせてみるしかありません。手間や時間の負担を考えると、たくさんの商品をじっくり比べて最適なものを選ぶのは現実的ではなかったんです。

ターニングポイントは1996年に始まった「金融ビックバン」です。大規模な規制緩和が行われ、複数の保険会社の商品を扱える「乗合代理店」というスタイルが生まれました。こうしてようやく、消費者が単一の窓口で、複数社の保険を手軽に比較・検討できるようになりました。

保険を比較して選ぶという土壌がまだ存在しなかった時期に、法人向けの保険の比較・販売をビジネスとして立ち上げたのが私の父でした。

画期的・刷新的なサービスを提供する先駆者としてスタートを切ったトータス・ウィンズ。しかし、当時の亀甲さんはお父様の起業を手放しで喜べたわけではなかったと言います。

2002年、父は50歳をすぎてからの起業でした。長らく百貨店に勤めていたので、異業種に飛び込んだ形です。父の中では、時流に乗りきっと成功するだろうという確信があったようです。

しかし、私は社会人1年目で経営に関して知識もなく、正直なところ「父の創った会社がどうなるか、10年後に存続しているか、全くわからない」と思っていました。当然のごとく、いずれは父の会社に入ろうとか、アトツギになろうとか、そのようなことは一切考えていなかったんです。

新卒で選んだ就職先はIT系 激務でも「楽しかった!」

亀甲さんが新卒で入社したのはIT系の大手システム会社。システム開発の要件定義のためにヒアリングを行う営業として、プロジェクトに携わっていました。

当時、本当に仕事が大好きでした。座右の銘は「点滴石を穿つ」なんですが、コツコツ積み重ねて作り上げる時間が何物にも代えがたいほど楽しくて。ハマると長いタイプであると自覚していますが、この時期は仕事に“ハマっていた”のだと思います。

残業時間が200時間超も当たり前のハードワークが毎月続きました。今では考えられませんが、まだ幼かった我が子と1ヶ月も顔を合わさない、なんてこともありました。心身ともに辛かったはずですが、それでも、本当に楽しかった記憶しか残っていないんです。そして実際、大手のクライアントから10億円以上の案件を受注するという大きな成果にも繋がりました。

仕事に没頭していた日々 突然の病と訪れた転機

これまでの努力が実を結び、私はますます仕事にのめりこんでいきました。しかし、大きな案件を受注しホッとしたのもつかの間、突然の吐血。積み重なる疲労に、ついに身体が悲鳴をあげたのでしょう。胃潰瘍と診断され即入院。療養のため3ヵ月休職することになり、家族には心配をかけてしまいました。

がむしゃらに働いてきましたが、実は、入社した時に「とりあえず10年は突っ走り、学べるものを全部学ぼう」と決めていたんです。倒れたのは9年目のことでしたから、タイミング的に次の道を考えるようになりました。

いくつか他社の面接も受けてみたのですが、最終的に保険を扱う父の会社を選んだのは、自身が病気で倒れたことが最大の理由です。

父の会社も創業9年目を迎えており、自分が継ぐ道もあるかもしれないという漠然とした考えが頭の片隅にはあったものの、直接のきっかけになったのはこの出来事でしたね。

当たり前のことですが、身体が資本で、何よりも“健康第一”、そして、傷病手当や会社の福利厚生といったサポート制度のありがたみも身をもって学んだんです。「倒れたら一大事」のキーマンにこそ保障が必要と痛感し、「私が進むべき道はこれだ」と思いました。そのまま父に、トータス・ウィンズに入社させてもらえないか?と切りだしました。

レベル1からのスタート 持ち前の「没頭力」を発揮し、
わずか4年で事業継承へ

入社したものの、最初から事業を継ぐことが決まっていたわけではありません。今のお姿からは想像できませんが、最初は「全然ダメだった」と亀甲さんは話します。

心機一転、「さぁ頑張るぞ」と前向きな気持ちでスタートしたものの、順調な滑り出しとは言い難かった。大企業から中小企業、システム開発から保険代理店という、大きな環境の変化のなか、想像以上のギャップに苦しみました。

保険代理店の業務は、社内での連携も必要ですが、基本的に個人の裁量に任せられる部分が大きいんです。たくさんの人が関わり、チーム内の折衝なしには作業が進められないシステム開発の営業に比べると、保険の販売業務は、一人で考えて答えを導き出さなければならない場面が非常に多くあります。

知識も経験も不足している当時の私に突破力などあるはずもなく、バリバリ働き成果を上げていた前職のセルフイメージとは打って変わって、何もできない自分に落胆する日々でした。

例えるなら、RPGでレベル40まで鍛えた戦士として強力な魔物をやっつけていたのに、魔法使いに転職したらレベル1に舞い戻り、雑魚キャラ1匹も倒せない(笑)まさにそんな状態でしたから、かなり気落ちしました。

最近はご自宅でよくお子さんとゲームを楽しまれている亀甲さん。ゲームに置き換えると、確かにその状況は精神的にダメージが大きそうです…。そこから、事業承継するところまで一体どのように到達されたのでしょうか。

大きかったのは、お客様との出会いです。法人向けの保険ですから、既存顧客は経営者の方ばかり。直接お会いしてお話しすると、視座が高く視点も違い、見えている景色や発想が全く異なります。それまでは年の近い現場担当者と接する機会の方が多かった当時30歳過ぎの私にとっては、カルチャーショックと呼べるほど大きな衝撃でした。

発言の意図が掴み切れず戸惑う反面、純粋に「すごいな」と感心することも多かったですね。こんなにすごい方々と共に仕事ができる、お付き合いが持てるこの仕事に就けた私は、とても恵まれてるのではないかと強く感じたんですよ。

今思えば前職の激務により体だけでなく心も弱っていたのだと思います。新たな仕事にやりがいを見出したことで、仕事に向かう楽しさが鮮やかに蘇ってきました。

俄然、やる気に火がついたのは、そこからです。「保険の世界は思っていた以上に奥が深く、面白そうだ」と学ぶ意欲が一気に加速しました。さまざまなコミュニティに属するようになり、同世代の経営者とのつながりも増え、積極的に交流するようになりました。

レベル1から始まった保険の分野、持ち前の「のめり込む」性格のおかげで瞬く間に知識・経験を身につけていきました。入社からわずか4年で、事業継承されたことからも、その成長速度がうかがい知れます。

父の65歳の誕生日に突然「今年譲るから、あとは任せた」と告げられ、その3ヶ月後には代表を交代しました。驚くほど早いですよね(笑)

入社時点では、事業承継の話はありませんでしたから、一緒に働いてみて、「任せても大丈夫だろう」と判断してくれたんだと思います。

「あとは任せた」驚くほどスピーディーな事業継承の裏側

経営者の交代にあたって、先代からやり方をあれこれと細かに引き継がれるケースも耳にしますが、お父様は亀甲さんに指揮権をスパッと渡す形でバトンタッチされました。

父は、人間的にはとても優しいんですが、仕事面では割り切った対応をします。

父は百貨店、私はITという異なる業界での経験がベースにあるので、知ってる領域も、仕事の仕方も全く違います。父はそれを理解したうえで私を入社させてくれたので、自分のやり方を継がせるつもりは毛頭なかったようです。

むしろ「これからの時代に合わせたやり方は私にはできないから、あなたが思うようにやりなさい」と言われていました。

もちろん、いきなり完全に独り立ちというわけではありませんでしたし、父は今も定期的に顔を出し、要所でのサポートをしてくれています。ごく自然に尊重しあい、お互いの良いところを活かせる、理想的な状態だと感じています。

会社の舵取りを一任してもらったとはいえ、今でも父の存在は絶大な影響力を持っていると感じています。お客様から「先代は信頼してるけど、あなたのことはまだ信頼してない」と面と向かって言われたこともあります。それが今では、ものすごく良い戒めになっていて。信頼は一朝一夕には得られない。驕らず、常に謙虚でいようと思っています。

「性に合っている」未来への危機感が保険への
モチベーション

紆余曲折を経てたどり着いた現在ですが、保険を紹介するお仕事は「まさにやりたいことで、性に合っている」のだとか。

私は元来、心配性で「転ばぬ先の杖」とばかりに、将来への不安・未来についての危機感が大きいタイプです。そしてこの性格が、保険という商材を扱う仕事には非常に向いていると思っています。

保険は適切に使えば、さまざまなリスクを回避できます。事故や病気、不況といった大きなイベントはもちろんですが、リスクは何も不測の事態だけではありません。

幅広いリスクに備えられる保険 本当に良い商品を広めたい

リーマンショックが起こった際、私はまだ前職で営業をしていました。混乱した世界経済を目の当たりにして「これからは正しい金融リテラシーが不可欠になる」と強い危機意識を持ちました。

日本は国際社会の経済競争の中で、“置き去り”にされつつあるというデータが各所で発表されています。大手シンクタンクの統計資料でも、欧米などの先進国はもちろん、途上国にも、今後数十年のうちに抜き去られることが確実視されているんです。

私たちの親世代は、給料を銀行に預けているだけで自然と蓄財できましたが、その時代の常識はすでに通用しません。銀行預金の金利は非常に低い状態が何年も続いていますし、各国の通貨に対する円の価値も低下してしまいました。言ってしまえばこれも、日本で生きる私たちにとって大きな「リスク」ですよね。

ここでも保険は活用できます。例えば、資金を銀行に預ける代わりに利率の良い保険に加入する、外貨建ての商品を選ぶなどの方法が取れますよね。使いようによって、あらゆるリスクに対する有効な手立てになるんです。

将来のいろいろな局面に備え、役立てられる保険は必要不可欠だと確信しています。保険はそれぞれ内容が違い、複雑にみえるかもしれませんが、だからといって知らないのはもったいない。たくさんの保険商品がありますが、本当にいいものはいいと心から思いますし、そういうものを世に広め、より安心で豊かな生活を送ってもらいたいと願う気持ちが、私の原動力です。

法人保険の代理店業務には難解なイメージを抱いていましたが、亀甲さんの軽快な語り口とシンプルで真っ直ぐな言葉選び、そしてユーモアに富んだお話の数々に、すっかり引き込まれました。

わかりやすく話すことを徹底的に鍛えられたという営業職でのご経験が、現在の業務にも大いに活かされていると感じます。

“代理店”ではあれども「保険会社の代理で販売する」よりも「お客様が望んでいる商品を代理で購入する」という理念のもと行動しているという亀甲さん。企業のファイナンスにまつわるお悩みや疑問をぶつければ、きっと問題を整理してわかりやすく読み解き、親身になってベストな提案を一緒に考えてくれるのだろうと思いました。

本日はお話、ありがとうございました。